上村プロデューサー
上村将之
今回は4月で10年目の男性ディレクターのつぶやきです。
はじめまして。
この春で入社10年目を迎える上村将之(独身・男・サル年=36歳)です。
素敵な宇宙船地球号 担当
首都カブールから西へ800キロ。アフガニスタン第5の都市ヘラートに程近いガラン村。
4年間雨がまったく降らず、村唯一の井戸(タイヤの部分)も枯れる寸前に追い込まれていた。
この仕事をしていて、よく聞かれる質問があります。
1.『アイドルなんかと、仕事するんでしょうね』
2.『仲良くなったタレントさんと、飲みに行ったりするんすか?』
3.『海外とかバンバン行くんでしょうね』
etc・・・
1・2に関しては、不思議なほどありません。入社するまではテレビって『きっと、こんなことも…』『あんなことも…』と、思いを巡らせていたものの、これはホントにないっすね。もしかすると、僕が知らないだけで『アリ』な会社もあるのかもしれませんが…。ハイッ。
とはいえ、キムタクと仕事をしたからといって一緒にアイスホッケーをしてみたり、ハセキョーを取材したからといって合コンをするなどとは、誰も想像できないように、恐らく現実的ではないでしょう。
ところがッ、3に関してはマンザラでもありません。
もちろん携わる番組にもよりますが、場合によっては頻繁に海外に行く機会に恵まれます。(僕にとってこの職業を選んだ大きなモチベーションとなっていたのも事実。まさかァ、合コン狙いなんて…、ねッ、ありえません)
手元のパスポート(2000年9月発行)を見ると、まぁ、行ってきました、イロイロと。通過した国々も合わせると、25ヶ国を超えていました。
確かにガイドブックにはない世界がそこにあるわけで、怖い思いも含めてそれは、貴重な体験となりました。極め付けは…、アフガニスタンです。
アメリカによる攻撃から1年後の取材時のこと。郊外にある村の撮影を計画していたものの、その道中には山賊が多く、ロケに出るには知事の許可書が必要になり、ホテルで足止めを食らっていました。
毎日、役所に足を運んでは知事との面会を求めるものの、『街の復興が先決』というもっともな理由で叶わず、外出もままならないまま、ホテルで途方にくれていました。
ところが、3日目が過ぎようとしていた深夜、蝋燭を手にした男たちが突然、部屋に押し入ってきました。いまから官邸に来い!というのです。
当時、街には電気が復旧していなかったため、夜9時を過ぎるとホテルの灯りは落とされるのです。腕時計に目を凝らすと、なんと午前1時半…。
そんな時間に、官邸で知事との面会など考えられず、『誘拐』されたという思いのまま、ガイド氏とともにポンコツのワゴン車に押し込められました。
ロケに同行していた日本の技術クルーの存在を、男たちに悟られぬよう振舞ったのは、逆境における僕の責任感以外の何物でもありません。
手元には莫大な(現地の通貨レベルとしては)ロケ費。誰も口を開かぬ、いえ、開けぬまま、ワゴン車は闇に包まれた街を走り続けるのでした…。
左より 村長・ガイド1号(ウズベキスタン語⇒ダリ語)・カメラマン・三脚持ち(現地人)・本人・副村長・野口健(登山家)・ガイド2号(日本語⇒ウズベキスタン語)
※海外のロケではよくあるのですが、二重通訳のためガイドは2人
※野口さんはレポーター役でロケに同行
※写真奥:建物が集まっているところが村。その手前に広がっているのは干上がった大河
*紙面の都合上、スリルとサスペンスに満ちた途中部分を端折ります。
30分後…。悪夢を打ち消すかのように、ワゴン車は静かにゲートを通過。銃を肩から下げた屈強そうな男たちに両脇を囲まれたまま、僕らは赤い絨毯の敷き詰められた長い廊下を通り抜け、知事が待つという部屋へと連行されたのでした。
すると、いるではありませんか、大勢の議員を従え、その中央に知事様が。さらに驚いたのは、復興したばかりの現地テレビクルーたちが僕らを撮影するために、そんな夜中までスタンバイしていたこと。しっかりと撮られてしまいました。謁見の様子を。しかし、こちらは寝起きで短パンにサンダル。ところが、優しい眼差しをたたえた知事は、そんなことにはお構いなし。
僕をODA関係者と勘違いしたのか、否か。戦後の復興には、是非とも日本の力が欠かせないと、30分にもわたり熱心に語りかけるのでした。
しかし、ヒートアップする知事の熱さとは裏腹に、我々を囲む議員たちの冷ややかな視線は、刺すように僕の足元に注がれていました…。
翌朝、僕らは期待を胸に秘め、郊外の村へと旅立ちました。
途中立ち寄った食堂で流れていたニュースでは、髭モジャのキャスターが日本のTVクルーがロケに訪れていることを好意的に伝えていましたが、僕らの映った映像が使われなかったことは、言うまでもありません…。
合掌
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